桜庭一樹 『ファミリーポートレイト』

ファミリーポートレイト
 母親のために生まれた、マコの娘コマコ。五歳の時、「コーエー」と呼ばれる住宅から、「コマコ、逃げるわよ」と言われて始まった二人の旅は、コマコが十四歳になるまで続きます。その旅の中で撮った、マコとコマコの何枚かの「ファミリーポートレイト」を胸に抱きつつ、一人になって初めて会う父親に引き取られたコマコは、母親との旅の間に少しずつ育まれた、物語ることに目覚めていきます。

 マコとコマコの逃避行は、どこかいびつながらも二人だけの蜜月であり、第三者的に見れば不幸なはずのコマコの少女時代は、母親に満たされた幸福なものとして描かれます。幸福な生活の軌跡のように撮られる「ファミリーポートレイト」は、その後二人の蜜月が終わった後でもコマコの中に息づきます。
 完結した二人だけの世界に住む故に、そのいびつな形の幸福は、二人がどれ程過酷な状況にあっても揺らぐことはありませんが、コマコが「こども」から「女」に変化する時を迎えると、二人の関係が少しだけ変わり始めます。それは、年齢とともに母親のマコの容姿に綻びが見え始め、代わりに花開こうとする娘のコマコに対する、母親の女としての本能からの「怖れ」として描かれます。
 文字を覚え、物語を知り、世界を大きく広げ始めるコマコは、それでも「マコのためのコマコ」であり続けようとしますが、どこか物語りめいた二人だけの逃亡生活は突然に終わりを告げ、十四歳にして残りの「余生」をコマコは無感動に生きることになります。
 「女」そのものだった母親のマコを喪失したことで、たとえ性を知っても「女」になれないコマコは、しかし物語ることで自身の中に少女時代とともに失った「マコ」を見い出し始めます。
 ですが、物語を生み出すことで、喪った母親と二人だけの幸福だけを追い続けるコマコに対して、恋人となった男は彼女を詰ります。

「マン・オブ・ザ・ワールドって言葉があるんだけど。直訳すると、社会の一員っていう意味。昔は大人になるとみんなが社会の一員となった。働いて物をつくる人や、社会の仕組みを動かす歯車になる人。その人の家で家族の世話をする奥さんだって、家事という形で社会に参加してる。ところがいまは、大人になってもそうはならない。社会人としての自覚がない。僕は歯痒い。ひとはもっと、ちゃんと、まともな大人になっていくべきだ。そうしないと自分が辛い。周囲も辛い」

 あまりにも真っ当過ぎる恋人の懇願に、いびつな幸福を知るが故に応えることが出来ないコマコは物語を生み出し続け、そして彼女を通り過ぎる人々を見る中で自らを見詰めていきます。
 さらに恋人は、彼女に歩み寄りを見せながらもやはり「母親と暮らした日々の幸福から立ち直らなくてはならない」と告げます。
 そして、彼女自身が「余生」と感じていた時間の中、一人にだけの「セルフポートレイト」を撮りながら喪ったマコを探すコマコが辿り着く最初の「ファミリーポートレイト」により、ただ生き延びるだけだったコマコは、ようやく一人の人間としての再生を果たします。
 本作には、著者がこれまで書き続けてきた「喪われてしまう少女時代という幸福」というテーマへのひとつの答えがあると言えるでしょう。そして、主人公のコマコの中に著者自身の姿が透けて見えることで、その答えには一層の説得力を持っているような、そんな1冊でした。