北村薫 『ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件』

ニッポン硬貨の謎 エラリー・クイーン最後の事件 (創元推理文庫 (Mき3-6))

 出版社に招かれて日本を訪れたエラリー・クイーンは、日本の若いミステリファンとの対話の機会のなかで、『シャム双生児の謎』で「読者への挑戦状」が挿入されていないことに対する小町奈々子の質問を受け、彼女と意気投合します。翌日、彼女の案内で東京の観光をすることになったエラリーは、偶然に連続幼児誘拐殺人事件の現場に行き合わせます。この事件に関心を持っていたエラリーは、犯人の次の行動を予測し、事件の解明へと乗り出します。さらには、書店でアルバイト中の奈々子に五十円玉二十枚と千円札を両替に来る男の謎をも、名探偵は解き明かすことになります。

 「1970年代に来日した時に遭遇した事件をもとに、エラリー・クイーン未発表の国名シリーズ『ニッポン硬貨の謎』の原稿を翻訳し、出版した」、という設定のもとに書かれた、クイーンのパスティーシュ
 そして本作が単なるパスティーシュに終わらないのは、1977年にエラリー・クイーンフレデリック・ダネイ)が実際に来日した際の記録を織り交ぜていること、さらには本作が、北村薫のクイーン論を物語中で展開している、「評論」としての側面をも併せ持っている点にあるでしょう。
 また、翻訳を装っているために、本文中には多くの脚注が盛り込まれていますが、本作で展開されるクイーン論においても、引用などの物語の外側部分に描かれるものが重要な役割を担っている辺り、やり過ぎにも思える作者のこの遊び心が入れ子構造の物語の中ならではの楽しさを演出します。
 さらには、若竹七海の実体験から生まれた競作『五十円玉二十枚の謎』を作中の事件と絡めるという、意欲的な試みも作中には盛り込まれています。
 もっとも、この五十円玉二十枚の謎や、作中で起こる事件の真相に関しては、その論理において破綻はないものの、現実的かと言われれば若干説得力に欠ける印象も皆無ではありません。
 被害者を繋ぐミッシングリンク、そしてそこにある犯人の執着が解き明かされる過程で披露されるロジックは、ある意味良い意味で現実離れした詩美性とでも言うべきものを内包してはいます。問題は、犯人そのものに対する言及のボリュームが決して多くないことなどもあり、事件そのものの展開とその解明におけるカタルシスの薄さなど、今ひとつ盛り上がりに欠けるような印象がぬぐえないことでしょう。
 また本作は、評論としての側面を併せ持つパスティーシュという複雑な成り立ちを持つ作品であるだけに、国名シリーズ(特に『シャム双生児』『チャイナ橙』辺り)や『九尾の猫』など、あらかじめ読者が読んでいることを前提とする作品も少なくはありません。
 特に中盤で繰り広げられる『シャム双生児の謎』で「読者への挑戦状」が挿入されていないことにまつわる一連の議論は本作の大きな見どころであり、それを理解し、楽しむためには、当然そこに取り上げられている作品を読んでいることが要求される側面を持っていることは無視できません。それは既存作品のネタバレ云々の問題以上だけではなく、本作の大きな山場を楽しむ上での前提であると言えるでしょう。
 純粋に「日本で起こった事件に来日中のクイーンが取り組む」物語を中心に期待すると、様々な意味で厳しい気はしますが、まるでクイーン自身によって書かれた(そして翻訳された)かのような独特の空気は、パスティーシュとしての成功を表しているでしょう。さらには、物語に盛り込まれた評論の側面で展開される鋭い洞察と、それに対するクイーンの反応の描写など、他の作家には決して書くことの出来ない一作であることは事実。
 いかにもクイーンっぽい言葉遊びを含んだタイトルや、来る80年代の日本のミステリに起こるムーブメントまでをもクイーンに語らせてしまう部分でも、思わずにやりとしたくなる箇所だらけの作品でもありました。