実家の近所に住んでいた昔憧れた辺見のお姉さんから頼まれ、彼女の引き篭もりの息子についての相談を受けてしまった二郎。証券会社の株取引の際、とんでもないミスで莫大な損失が出た事故についての原因調査を依頼される五十嵐真。人々の声にならない"SOS"を敏感に感じ取ってしまうものの、それをどうしてやることも出来ずにいる自分自身に問い掛けを続ける二郎の世界と、とことんまで物事の原因究明をする五十嵐の世界が、人々の発する"SOS"に応える孫悟空を介し、収束に向かいます。
悪魔祓いを副業にする家電販売員の二郎にしろ、周囲に煙たがられるまでに独自の論理に基づいてとことん物事の因果関係を解明しようとする五十嵐にしろ、そして彼らの周りでマイペースな持論を振りかざす登場人物たちにしろ、伊坂作品の登場人物としてのひとつの傾向をハッキリと見せているのは事実。彼らの言動は自分の弱さを語る登場人物の中にあってもどこまでも揺るがず、それゆえに現実社会においては存在し得ないような人物造形でありながらも、作中においては確固たる存在感を示す魅力的な登場人物として描かれます。
そして、そんな登場人物たちを乗せて動く物語は、ファンタジックな妄想めいた何かと作中における「現実」との、両者の境目のあやふやな、伊坂幸太郎独特の世界観を持っています。
とはいえ、『あるキング』でもそうであったように、洒脱な会話回しや分かりやすく読者を引き込む勧善懲悪のテイストは抑えられ、そのことで本作もまたある程度読者を選ぶ作品になっていると言えるかもしれません。
それは著者の作風が、荒唐無稽な登場人物と、分かりやすく貫かれる彼らの「正義」の格好良さで、どこか異質なファンタジックさを容認させるような部分のある作風なだけに、それらの特性の一部を抑えてしまったことでの違和感が残る気がするのかもしれません。
ですが、「私の話」と「猿の話」のパートが現実と虚構の境を曖昧にしながら、読者の気付かぬうちに接近し、ある時点で一気に収束する物語運びの上手さは筆の乗り切った著者ならではのものですし、読者に是非の分かれるだろうこの作品が、今のブレイクした伊坂幸太郎だからこそ書ける作品であることも事実でしょう。
ただし、上手い作品と絶対的に面白い作品とが必ずしも一致しないということを示してしまった一作であるという側面は大きく、単純に初期の伊坂作品の面白さに惹かれて本書を手に取ると、ある種のフラストレーションが生まれることは指摘できるでしょう。