柳広司 『ダブル・ジョーカー』

ダブル・ジョーカー (角川文庫)
 「魔王」の異名をとる結城中佐により設立されたD機関が活動を続ける裏で、彼らを快く思わない派閥により"風機関"が設立されます。陸軍に二つの諜報機関はいらない――ジョーカーは一枚で良いとの意図のもと、D機関を追い落とすために風機関は活動を始めます。"何があっても死ぬな、殺すな"を叩きこまれているD機関と、"躊躇なく殺せ""潔く死ね"を叩きこんだ風機関との行く末を描く表題作『ダブル・ジョーカー』。共産主義者としてロシアの情報提供者となっている軍医のもとに、近く軍のスパイが送られてくるという情報が入ります。軍の慰問に訪れた芸人やその関係者の中にそのスパイがいると思われ、軍医がその人物の特定をしようとする『蝿の王』。軍の仕事でフランス領インドシナに送られた、民間の通信士の高林が現地で襲われます。危ういところで難を逃れた彼を助けたのは、D機関に属するスパイだという男でした。その男から新たに与えられる指示をもこなす高林の視点で描かれる『仏印作戦』。列車事故の被害者の一人を、日本人のスパイであると確信したヘルマン・ヴォルフ大佐が、あまりにもスパイとしての痕跡の見つからないその被害者の周到さに、かつて自分が相対した「魔術師」と呼ばれた日本人スパイを思い起こす『棺』。裕福なアメリカ人女性と結婚したバードウォッチングが趣味の日本人が、スパイ容疑を掛けられて逮捕されます。実際のところは、事実D機関のスパイだった彼ですが、これまで積み上げてきた技能と妻や義父の力で容疑をはねのけます。ところが、自らが作り上げた情報網の中に潜む二重スパイの特定という任務を終えかけた彼の前に、思いもよらぬ事態が起こる『ブラックバード』。難病に侵された愛娘を助けるために頼った"アンクル・ニック"からの手紙がサムのもとに届きます。スパイに対する秘密尋問所に勤めるサムのもとに送られた一冊の本で、読者には物語の全容が明らかになる『眠る男』。

 表題作は、生粋の軍人を排除したD機関の在り方を快く思わない軍の一派の意向で立ち上げられた、軍の選りすぐりのエリートによって組織された"風機関"が登場します。本編はその風機関が、D機関の追い落としをかけ、同じ任務に当たるという物語。そこでは、熾烈なスパイ合戦が繰り広げられるかと思いきや、ただ順調に風機関のスパイ任務が進んでいき、最後の最後までD機関の姿は物語に現れません。ですが、そのラストにわざわざ現れ、これ見よがしに振る舞う結城中佐の切れ者ぶりと存在感は半端無く、最後にすべてをさらっていってしまう圧倒的な存在感を見ることが出来るでしょう。
 他の物語でも、スパイという性質上、D機関の彼らひとりひとりは、主人公としての役割りを物語において果たすことはほぼありません。ですが、結末近くまで、物語のどこに存在するのかすら分からないままでいることすらある、D機関の彼らや結城中佐の存在感は、全編に渡って強く感じられるものとなっています。
 また、前作で語られていた結城中佐の過去が明かされる『棺』においては、かつて結城を「狩る」ことに一度は成功したドイツ人大佐が、一人の死んだ男の裏に結城の影を見るという趣向が生きていると言えるでしょう。本編は、やはり最後の最後まで直接姿を見せることのない結城とD機関の存在が、物語を終始支配していると言っても良いという部分が何とも上手いと思わされます。
 そして、作品の中の時間が進み、徐々に戦争の機運に傾いて行く中で、実際に戦争になってしまえばそれまでとは全く違う役割を求められることになるスパイという存在――D機関の今後の行く末がどうなるのかという部分で、盛り上がりを見せる場面で本書の中の現在進行形の時間は終了することとなります。(巻末には、前作の物語の裏を描いた『眠る男』が、文庫で新たに収録。)
 そうしたシリーズ全体の物語の行く末を暗示する、時代背景を完全に飲み込んだ全体の物語構造の緻密さと、あまりにも鮮やかな登場人物たちの姿が、この作品に読者を惹きつけてやまない一つの要因となっているのかもしれません。
 前作同様、極上のエンタメに満ちた短編集。