伊藤計劃×円城塔 『屍者の帝国』

屍者の帝国
 19世紀のロンドン。ヴィクター・フランケンシュタイン博士による、死体から屍者を創出する技術が普及し、そこで生み出された屍者が産業革命を担い、大きく社会が変わる時代。屍者の技術に精通した医学生ジョン・ワトソンは、政府の秘密機関の命を受けてアフガニスタンへと潜入することとなります。ロンドンからボンベイへ、そしてアフガニスタンへ。さらには日本、アメリカを経て再びロンドンへと舞台を移す壮大なマッド・ヴィクトリアン・ファンタジー

 伊藤計劃がプロローグ部だけを書き遺した『屍者の帝国』を、同年代の「盟友」であり芥川賞作家の円城塔が書き継いだ作品。当然、プロローグ部とその後に続く本文との間には、作品の風合いの違い*1もありますし、完全に「伊藤計劃」風の作品であることを期待すれば、「これは違う」と感じる可能性も皆無とは言い切れません。
 しかしながら本作は、『虐殺器官』での「虐殺の言葉」による崩壊、そして『ハーモニー』での個である存在<秩序と調和を重んじる共同体から導かれる極限のユートピアディストピアへと展開した伊藤作品の「その先」として、伊藤計劃の目指した物語の根底にあるテーマや方向性を明らかに見据えた作品となっているのは事実でしょう。そして、『ハーモニー』が初期の仮題で『生命の帝国』であった*2ことを思えば、本作とのテーマの連続性は、故伊藤計劃の中で必須であったでしょうし、書き継ぐ側の円城氏が目指すものとなったのも必然だったのでしょう。
 本作は、医大生である主人公のジョン・ワトソンが、その優秀さを買われて特殊任務を与えられ、ロンドンからインド、アフガニスタン、日本、アメリカ、そしてまたロンドンへと戻る、世界を股にかける壮大な物語です。
 物語世界は19世紀では、「霊素」の概念から生まれたソフトウェアを死体にインストールすることで生み出される、死者を屍者として再生し使役する、フランケンシュタインにはじまる技術が産業革命が支えています。この「屍者」は日本の西南戦争など明治維新に伴う戦いでも兵力として導入されていたりと、現実の歴史をなぞりながらも、作品世界の根本を支えるのは虚構であるという、不思議な世界が描かれます。
 この世界観は、『ディファレンス・エンジン』がコンピュータ技術の代わりに蒸気機関が世界を担う技術として発展・進化されたら〜というifをそのまま、産業革命を支えるエネルギーとしてフランケンシュタインに始まる屍者を使役する技術が発展・進化た世界であったら〜にスライドしたものと考えて良いのでしょう。
 登場する人物を見ても、ヴィクター・フランケンシュタインに始まり、ヴァン・ヘルシング、フランシス・ウォルシンガム、リットン、アリョーシャ(アレクセイ)・カラマーゾフ、ピンカートン、日本からは山澤静吾に川路利良ユリシーズ・グラント、レット・バトラー、そしてラストのロンドンでは「あの人」へと辿り着く、多くの人が既知の実在・架空の様々な人物が盛り込まれた、壮大な歴史改編の物語となっていて、元ネタを思い起こしながら楽しめる仕様となっています。
 その意味では、本書はスチーム・パンク的な思想や空気を持ちながらも、より正確には「マッド・ヴィクトリアン・ファンタジイ」と言うのが正しいのでしょう。
 いずれにせよ、伊藤計劃という作家が思い描いた壮大な未完のエンターテイメントを、多くの読者の前に上梓する形としては、おそらくベストの在り方となった一作かもしれません。

*1:あくまでも期待に基づく私見ではありますが、伊藤計劃が書いたとすれば、作品内にはその時代の地域紛争や戦争というものがもっと大きな割合を占めていたのではないかと考えられますし、また作品の雰囲気ももっと硬質で映像的なものとなったのではないかという期待が可能のように思えます。

*2:河出書房新社 屍者の帝国特設ページhttp://www.kawade.co.jp/empire/、担当編集者が語る刊行までの経緯より。「余談ながら、『ハーモニー』の仮題は『生命の帝国』でした」