柳広司 『パラダイス・ロスト』

パラダイス・ロスト (角川文庫)

ドイツに占領されたフランスで、ドイツ軍に暴言を吐いた老婆を助けに入ったことで殴られ、記憶を失くしてしまった日本人留学生の島野。自分に何か特殊な能力があることを悟った島野は、彼を助けてくれた三人のフランス人の男女とともに、ドイツ兵の追手から逃れるべく身についている知識を総動員することになります(『誤算』)。
シンガポールラッフルズホテルで宿泊客が殺害される事件が起こります。そしてその事件の犯人として自首をしたのは、アメリカ人青年のキャンベルの婚約者の女性でした。何とか彼女を助けようと、キャンベルはホテルのバーで聞き込みをはじめますが…(『失楽園』)。
イギリスと日本の関係が悪化し、敵国となってもなお日本に留まり続ける英国人ジャーナリストのアーロン・プライスは、陸軍内に創設されたスパイ養成機関「D機関」をたった一人で立ち上げた、結城中佐という謎の男の素性について調査をはじめます。そして、堪能な日本語能力でもって、結城の隠された経歴と思われるものに辿りつきますが…(『追跡』)。
開戦したイギリス軍から逃れたドイツ船舶の乗組員と思われる一行を含んだ日本の客船が、ハワイを経由して日本へと向かう航海をする中、クロスワードパズルを介して一人のアメリカ人に、D機関からの任務を受けて潜入した内海は接触します(『暗号名ケルベロス』)。

 ナチス・ドイツが周辺国と戦争に入り、日本も中国との間で戦端が開かれた時代背景。その中で、軍にあっては異端のスパイ集団D機関のエージェントたちは、むしろ戦争前よりも悠々と任務にあたっています。
 『ホーカー・ゲーム』『ダブル・ジョーカー』と続いてきたこれまでの作品群と比べれば、D機関のスパイたちは物語の中においてより万能感のようなものも感じられる分、「敵」との駆け引きという意味での緊張感は薄いかもしれません。それは、実際に戦争がはじまってしまえば、スパイの役割というのは限られたものになるという、これまでのシリーズ2冊で言われてきた展開に沿うものであり、最前線ではない、そして軍の締め付けが増した日本国内でもない場所にいることで、D機関のスパイたちは軍部との確執から解放されて、むしろのびのびと自らの仕事に集中することが出来ているというような風情すらあります。
 また『追跡』では、まさに「魔王」として君臨する結城中佐の絶対的な存在感を揺るがすまでに迫る側の視点で描かれる物語であり、巧妙に隠された結城中佐の正体を暴こうとする外国人により、徐々に明かされる過去が実にスリリングに描かれます。いかにも本シリーズらしい巧妙な騙しを盛り込み、物語のどんでん返しまで含めて秀逸な一編と言えるでしょう。