北村薫 『鷺と雪』

鷺と雪
 軍国主義の足音が聞こえ始める昭和初期、兄が見たルンペンに身をやつした子爵の姿、「ライオン」と日記に書いて夜遅くの上野で歩道された少年、何かにショックを受けて倒れた同級生が見たと言うドッペルゲンガーの謎。女性運転手のベッキーさんの鮮やかな謎解きとともに、女学校の卒業を目前にした英子の目には、ルンペン、ブッポウソウドッペルゲンガーなどを通じて時代の流れが映し出されます。

 『街の灯』『玻璃の天』に続くシリーズであり、これまでも主人公の英子の穏やかな生活の外で少しずつ大きくなっていった時代の影は、本作のラストにおいて決定的な瞬間を迎えることになります。
 まだまだ女性は社会的に制限されていた時代でありながらも、ベッキーさんに温かく見守られながら伸びやかに成長する英子は、男性上位社会だったその時代をただ否定するわけではありません。様々な書物や文化芸能、そして周囲の人たちの姿から自由に物を考える英子は、どこまでもその時代に生きる等身大の一人の人間として描かれます。
 そして、本書の末尾を飾る表題作『鷺と雪』において、英子の目には何でも出来る並外れた女性として映っていたベッキーさんが、「(自分には)何も出来ないのです」と伝え、英子こそが新たな激動の時代である「明日」を生きるのだと告げる重みは、決定的な時代の転機が訪れるラストでずしりと圧し掛かってきます。
 物語の時間軸から見れば後世に生きる私たち読者は、この後日本が、そして世界が戦争へと向かっていくという歴史を知るだけに、普通に物を感じ、考える一人の人間の力の及ばないところで、時代が突き進んでいく怖さをいうものが、一層の重みを持って感じられるでしょう。