小野不由美 『残穢』 

残穢
 かつて著書のあとがきで怖い話を募集していた作家のもとに、編集プロダクションに勤める久保さんという女性から、彼女が越したばかりの賃貸マンションの部屋に、何かがいるような気がするという手紙が届きます。久保さんによれば、畳の部屋の床を何かがするような音がするといいます。最初のうちは中年女性が畳の上を箒で掃くような音だと思っていましたが、ある時一瞬だけ見えたものが、和服の袋帯のようだったことに気付き、上から垂らされた帯が畳の上で揺れている音のようだと思い始めます。マンションのその部屋では事件も事故も起こったという事実は見つからないものの、調べるうちに同じマンションの別の部屋も含め、住人が長く居付かないことがわかり、久保さんと連絡を取り合いながら作家もまた、その土地の過去に遡っての調査を続けます。

 著者自身を思わせる語り手の視点で物語は展開し、実在の作家も登場させることで、どこか実話なのか創作なのかを惑わされてしまうような怪異譚。物語は、現在から前世紀、高度成長期、戦後、戦前、明治大正期と、少しずつ土地の歴史を遡ることで進んでいきます。
 序盤では、久保さんのマンションで起こる怪異はちょっとした違和感に過ぎないものの、得体の知れない中年女性の気配が「そこに居る」という不気味さを醸し出しており、それが和服の袋帯という具体的なものを纏って存在を表し始めるに至り、より一層の気味悪さを感じさせるものとなります。
 ですが、本作で描かれる怖さの本質は、単なるホラー譚のように、具体的に原因となる事件や事故による人の死と怨念が明らかになれば怪異がおさまるというものではないところでしょう。怪異の正体が分かれば、そこで怖さを減じても良さそうなものですが、ひとつひとつ明らかになるにつれて怖さが深まっていくという部分でも、本作は一級の怪異譚であるのでしょう。
 そして本作で描かれる土地の歴史は、戦後から高度成長期、そしてバブル時代になるに至って、その土地に住んできた人間の歴史が寸断される物語でもあります。土地が切り売りされ、バブル時代には地上げなどもあって古くから住む住人が消えていき、そしてマンションが建って新たな住人が入って来る。ですがここで新しく住人になった者と古くからの住人の間には繋がりが薄く、また時代とともに人々は住む場所を流動的にすることが増えてくる――こうした中で、その土地の歴史が寸断されるという、近代日本の一つの側面もまた、本作には深く関わっています。
 マンションの過去の住人たち、マンションが建つ前のその土地の住民たち、さらには戦前、明治大正期まで遡り、最終的には遠く離れた場所にまで起源を遡れば遡るほどに、怖ろしさが増してくる。そして徐々に明らかになって来る怪異の構造は単純なものではなく、実体を持たず、まるでウィルスのように拡散し続けることでの「怖さ」が実に秀逸と言えるでしょう。