西澤保彦 『腕抜探偵、残業中』

腕貫探偵、残業中 (実業之日本社文庫)
七十を前にした主人公が、仄かな気持ちを抱く女性の働く飲食店に客として訪れていたところ、従業員や他の客とともに突然押し入ってきた強盗たちにより、人質として監禁されてしまいます。この強盗事件の顛末と、店の事情をよく知ると思われる犯人たちの真の思惑とは。(『体験の後』)
ユリエが見つけた写真は、彼女と同じマンションに住む夫婦間での殺人事件が起きた雪の日の一枚でした。その写真に写っている車に違和感を覚えたユリエは、以前に彼女が巻き込まれた事件を鮮やかに解き明かした腕貫さんを探し出し、一年前に起こった事件のことを話します。(『雪の中の、ひとりふたり』)
学生時代に恋心を抱いていた女性と自分が並んで写った、当時の写真を見つけた藤木ですが、彼にはそんな写真を撮った記憶がありません。親友と付き合っていたはずの彼女と、二人で並んで写真を撮る経緯は何だったのか。そして、藤木は何故その写真のことを覚えていないのか。(『夢の通い路』)
事件性がなく病死と思われていた女性の預金通帳から、5千万円もの大金が引き出された形跡が発見されます。取り立てて大きな買い物をした形跡もなく、またつましい生活をしていたはずの彼女の通帳から、何故一度に大金が引き出されることとなったのか。(『青い空が落ちる』)
直紀の家の納戸にしている部屋と、隣家に住む真美子の部屋の窓とは向かい合っており、そのことに気付いた二人は以来窓を開けて密かに会話をする時間を過ごしていました。ですがある晩、異変を察した真美子の家族が目を覚ましてみると、真美子の部屋では思いもかけない事態が起こっていました。(『流血ロミオ』)
健介は佐和子と交際をしながらも、付き合い始めた彼女の態度にすっかり気持ちも冷め、珠美に心を移してしまっています。今後のためにどうしても佐和子が邪魔になった健介は、珠美と共謀してアリバイを作り、佐和子を殺害する計画を立てますが…。(『人生、いろいろ』)

 前作ではどこか都市伝説じみていて、生身の人間らしさが感じられなかった腕貫さんですが、本書ではグルメぶりを発揮したり、女子大生に懐かれたりと、キャラクターとしての面白さを見せるようになっています。
 そして、登場人物の軽妙な掛け合いをユーモラスに描きつつも、同時にその半面で人間の悪意の深淵を見せる著者らしさも、本作では健在です。当初は事件性が皆無で被害者も加害者もいないと思われていた『青い空が落ちる』で明らかになる真相は、人の持つ暗黒面が途方もないまでの無邪気さでもって突きつけられ、もはや「悪意」とすら呼べないほどの暗い意図でもって人生を狂わされる者と、それを引き起こす者の存在が浮き彫りになります。さらに『流血ロミオ』においては、唐突に断ち切られた少年の視点の先にあった出来事は、人間の身勝手さから派生する不幸の連鎖であり、どこまでも残酷な結末です。また、アリバイ工作をして殺人を企てる『人生、いろいろ』でも、当初の思惑から外れて意外な結末を迎える人間の姿が描かれると同時に、悪意を超える悪意、そしてそれら人間の意図など軽く凌駕する運命の皮肉さとでもいうべきものが描かれます。そうした部分で本書は、終始軽妙でユーモラスな作品の空気と、時として冷ややかに提示される真実とのギャップが著者らしいとも言える一冊かもしれません。
 そして、就業時間を終えて「市民サービス課臨時出張所」の席から離れ、黒いアームカバーも外した腕貫さんには、前作では見えなかった個性を感じることが出来ます。しかしそんな腕貫さんは仕事を離れてすら、人間の善悪など超越しているかのように描かれます。一人一人の人間の救い難い悪意や、善とは言えない資質から生まれる意図を、それらを超越する存在によって真相を明らかにされるという構図の様式美のようなものを、本書に見ることが出来るかもしれません。