米澤穂信 『満願』

満願
 ベテラン警官である主人公の目からして、最初から危なげなものを感じていた新人警官が、夫婦のいざこざの末の刃傷沙汰に巻き込まれて殉職します。小心者で小狡いところのあった新人警官の死の背景とは(『夜警』)。
 音信不通になったかつての恋人が見つかり、彼女が働いている親戚の経営する宿に泊まることになった男。以前の薄情な自分とは変わったのだということを見せたくて、彼は彼女が見つけてしまったという宿泊客の誰かが書いたと思われる遺書の書き手を探し、その自殺を思いとどまらせようとしますが・・・(『死人宿』)。
 美しく生まれ、他の女性との競争に勝ち抜いて結婚した男は駄目な男だった――そのことに気付いた妻は、二人の娘の将来のために、夫との離婚に踏み切ります。ですが、定職に就かず家にもろくに帰ってこない夫は、親権を手放すことには同意せず、娘たちの親権を巡っての争いをすることになってしまいます(『柘榴』)。
 商社で資源開発のために外国へと赴任した男の、二人の人間を殺す羽目になった経緯と、その末路の物語(『万灯』)。
 都市伝説を題材にしたコラムを書くために、世話になった先輩記者から得たネタを元に、近郊にある峠で頻発する事故死について、その峠にある茶屋の老女から話を聞きます。ですが、そこで聞かされたのは、連続する死を都市伝説を仕立て上げようとしたライターの思惑を大きく超えた真相でした(『関守』)。
 司法試験に向けて勉強をしていた時期に世話になった下宿の女主人が、借金をした相手を殺したという話を知り、弁護士となった男は彼女の弁護を引き受けます。ですが、病気をしていた彼女の夫が亡くなるなり、これ以上の控訴はしないで良いと言い出した彼女を前に、弁護士となった男は過去を回想してある真相に思い至ります(『満願』)。

 この『満願』で、第27回山本周五郎賞を受賞。
 全6編の短編は、どれも決して後味の良いものではなく、著者がかつて『ボトルネック』のラストでやったような、各編ともに読者を突き放して闇へを落としていくような結末となっています。その結末へと至らせるのは、『ボトルネック』が自身の力ではどうしようもない無力感と絶望感であったのに対し、本書に収録された物語ではその多くに当人の意思というものが働いた故に選びとった結末であったという部分があるかもしれません。それゆえに、本書の物語の主人公たちは、救いのない結末に絶望を抱くのではなく、静かに諦念を見せる、あるいは如何ともしがたい真実をただ受容しているのでしょう。それは読者の善悪や幸・不幸という価値観では一概に断罪し切れない、絶対的な結末であると言えるのかもしれません。
 『夜警』では、小心ゆえに自分の失態を糊塗しようとする新人警官の性質と、それを知るベテラン警官の関係がまずありますが、それ以上に「弟がそんな立派な行動をするはずがない」という新人警官の兄の強い確信が、苦い後味を感じさせる真実をベテラン警官に突き付けることとなります。
 続く『死人宿』では、3人の宿泊客の誰が遺書を書いたのかという謎解きに沿って物語は展開します。それは、かつて交際をしていた時には、本当に親身になって彼女を思いやることが出来なかったと悔いる主人公と、そんな主人公の男に「本当にあなたは変わったのか?」と試すかのような女性との間の攻防でもあります。今まさに自殺をしようと思い詰めている相手が誰なのかを解き明かし、それを思いとどまらせることが出来れば主人公の男は自分がかつての薄情な自分とは変わったのだと彼女に信じてもらえることになります。ですが、結末ではその全ての努力に対し、恋人であった女性は、終始全てを俯瞰したかのような淡々とした態度のまま、冷酷な現実を男に対して付きつけることになります。それは、男が「変わった」のと同じように、理不尽な体験をして男のもとから去って「死人宿」と言われる場所で過ごすうちに、彼女に訪れた変化であったのかもしれません。
 男と女、そして母親と娘という、重なり合えば合うほどに、ドロドロとした情念とでもいうべきテーマに、「柘榴」というモチーフを重ねることで深い「業」を描き出した『柘榴』。容姿にも恵まれ、機知に富んでいた主人公の夕子は、多くの女性にとって魅力的な男性であった佐原成海を勝ち取りますが、「母親」となった彼女にとって佐原成海という男は、「家族」として、「父親」としては不適合な人物でした。この一編は、夕子という恵まれた女が佐原成海という男によって初めて躓き、思わぬ境遇に陥る物語であると同時に、「女」から「母親」へと夕子が変質を遂げたのに対し、夫となった佐原成海は変わることがなかったという点、そして、娘が成長することで「女」になった時、母と娘の間でひそやかに政権交代とでも言うべき動きが起こった物語と言えるでしょう。
 エリート商社マンが、自らの自己実現を会社の仕事の中に見出してひたすら邁進したがゆえに、二人の人間を殺してしまい、自らの転落を突き付けられるという『万灯』。本作では、主人公は人を殺すことで道を踏み外すことに対しても、悔恨に押しつぶされるどころかそれを強い意志を持ってやり遂げることになります。そして、視点となっているのがこの男であることで前面には打ち出されないものの、実は彼が道を踏み外しているという歪みと危うさが物語の根底にはあります。最期の、自らが転落していくことを確信しながらも揺らがない意思がこの男にあるからこその後味の悪さが、この1編の味であるのかもしれません。
 本書の中で一際異彩を放つのが、どこかホラーテイストな雰囲気を持つ『関守』。頻発する峠の事故死を都市伝説に仕立て上げて記事にするためにと、現場近くにある寂れた茶屋の老女に、事故死をした者たちのことを主人公はインタビューをします。ですが、都市伝説や怪談に仕立てるという目的でもって、どこかに因縁めいたものを探そうとする主人公の構えのせいもあってか、老女が語る連続死は既に気味の悪い雰囲気をもたらしていると言えるでしょう。そして、すべての「事故」にまつわる経緯を語った老女が明かす真相を主人公が知った時に、それまで密かに仕掛けられてきた伏線の全てが意味を持って迫ってきます。その仕掛けの鮮やかさと、物語の「怖さ」が実に秀逸な一作でした。
 借金のトラブルで相手を殺してしまう女性の弁護を引き受けた弁護士視点で語られる表題作『満願』では、司法試験を志した若い時代に彼女と過ごした時間を回想することで、弁護士は事件の背景にあったものを知ることになります。そこで明かされる女性の思惑や、その犯行状況に至るまでの理由付けが、過去から明らかになる女性の価値観によって実に説得力を持つことが出来ていると言えるでしょう。そこにある揺らぐことのない強い意志ゆえに見えてくる救い難さや後味の悪さが、そのまま作品の凄味になっているという、まさに本書の表題作に相応しい一作。