ジョン・ディクスン・カー 『皇帝のかぎ煙草入れ』

皇帝のかぎ煙草入れ【新訳版】 (創元推理文庫)

 夫との離婚訴訟を終えた女性であるイヴ・ニールは、向かいに住む銀行員のトビィ・ローズと親しくなり、彼の家族にも受け入れられて婚約をします。ですが、彼女の婚約を知った元夫のネッド・アトウッドが合鍵を使ってイヴの家の寝室に現れ、彼女に考えを変えるように迫ります。ネッドは向かいの家を覗き、トビィの父親が趣味の骨とう品を見ながら誰かと部屋に居る姿があることをイヴに告げ、今ここに元夫だった男が来ていることが知れればどうなるのかを仄めかします。何とかネッドを追い返そうとするイヴですが、先ほどまで骨とう品を見ていたトビィの父親が殴打され、血を流して倒れていることを知ります。そして婚約者とその家族に元夫と家で会っていたことなど知られたくないイヴは、そのことをなかなか告げることが出来ないゆえに、殺人の容疑者とされてしまいます。

 カーのノン・シリーズ作品の新訳版。旧訳と比べると、カーの作品にしては複雑なトリックや怪奇性が無い分、カーらしさは薄い部分もあるものの、物語が非常にすっきりしていることがより一層感じられるものとなっていると言えるでしょう。
 ですが、トリックそのものは複雑ではないとはいえ、真相を隠しミスリーディングへと導くために張り巡らされた罠は周到で、しかも中盤の状況が進めば進むほど、イヴが不利な立場に追い込まれていく様は何とも周到さに満ちていて、否応なく読者が惹き込まれる展開となります。
 そして、本書において著者の仕掛けの狡猾な所は、読者からすれば無実であることが明白であるにもかかわらず、状況がイヴにとってどんどん困難なものになっていき、かつ彼女の無実を証明する証拠があまりにも乏しいにもかかわらず、たった一つのキーワードで真犯人が明らかになる仕掛けでしょう。
 作者の緻密な計算のもと、終盤の逆転劇の鮮やかさが印象的な一作。