碁打ちの安井家の二男、安井算哲として江戸城に出仕する渋川春海は、神社の絵馬に出された算術の問題に、ことごとく鮮やかな解答を記す関孝和という人物を偶然に知ります。私塾でも次々に鮮やかな解答をしてのける彼は希代の天才として知られ、俄然興味を抱いた春海は関に問題を出して勝負を挑もうとするものの、出題した後で問題そのものに不備があったことに気付いて打ちのめされます。そんな中、幕府の重鎮からの声掛かりで出掛けた北極星の観測の旅を契機に、春海は現在使用されている暦が長い年月の中で出てきた誤差が無視できないものになっていることを知ります。そして、日本の暦を新しいものに改めるという、人生を掛けた一大事業に春海は挑むことになりますが、その道は困難と挫折の連続でした。
碁打ちの家系に生まれ、さらには算術にもその才を示す春海の前には、碁打ちの世界では本因坊道策が、算術の世界では関孝和が、それぞれ春海の前に確固たる存在としてそこにいます。ですが、それぞれの世界で天才と呼ぶに相応しい二人に認められながらも、碁の世界でも算術の世界でも、春海はそれを唯一生涯の道というほどにはのめり込めずに過ごすことになります。あるいは、彼らのようにその道での才能と情熱とを兼ね備えた存在が目の前にあったからこそ、春海自身が碁や算術を生涯唯一のものとは出来なかったのかもしれません。
ですが、碁打ちとしてのセンスと算術の素養の上に、天文の世界というものが交差した時、改暦という生涯を掛けた一大事業が、春海の前に示されることになります。
本作が魅力的なところはまず、渋川春海という人物が、多方面に才能を持つ人物でありながらも、同時代に突出した人物がいるがために、彼が唯一絶対の「天才」足りえず、スタートから挫折を知り、勝負に負ける経験を繰り返すというところにあると言えるでしょう。また、同時代に存在する、関孝和という算術の世界での圧倒的な天才と、春海をライバルと定める碁打ちの本因坊道策という後の偉人も、春海とは道を同じくすることがなくとも、互いに認め合う存在として魅力的に描かれます。
そして彼ら二人の天才とはある意味で対極的に描かれるのが、春海に「天」の理の不思議を示して改暦への道を開いた、建部と伊藤という二人の存在とも言えるでしょう。彼ら二人は決して「天才」としては描かれず、愚直なまでに天体への憧憬と探求を生涯を掛けてしたうえで、「頼みますよ」というさらっとした言葉とともに、春海に全てを託します。
本作では、主人公が改暦という途方もない戦いを始めるこうしたプロセスが、物語の前半をたっぷり使って、実に丁寧に描かれることとなります。
比較的作品ごとに小説のスタイルを使い分けるような器用さも持つ著者が、実在の歴史と人物を描くにあたり、比較的抑えた筆致で人物をただ淡々と描いたことも、本作の成功要因としては挙げられるかもしれません。どこか掴みどころのない、ニュートラルな主人公の個性は、読者の好悪を大きく左右することがないのに加え、春海が単なる成功者としてではなく、挫折を繰り返すという点でも、読者の共感を引き出す要素として働いているのでしょう。
そして節目節目に使われる「からん、ころん」という擬音が実に劇的な効果をもたらし、さらには随所にある「明察」という決め台詞が、ある意味では単調になりがちな物語の空気を引き締めていることも、実に効果的と言えるでしょう。こうしたテクニックによって本作では、単に史実を書きなぞった作品ではなく、「物語」としてのドラマ性を強くしている面も指摘できるかもしれません。そしてこのような技法の使い方は、ライトノベル出身の著者だからこそとも言えるものであり、最終的にはタイトルである「天地明察」という言葉に繋がる劇的なフレーズ使いと、それとは対照的にどこまでも抑えた筆致で描かれる人物とのバランスが絶妙であることもまた、作品の魅力を引き出しているのでしょう。