桜庭一樹 『赤朽葉家の伝説』

赤朽葉家の伝説
 山陰の紅緑村に、"山の民"の特徴を色濃く見せる容姿と、千里眼と呼ばれる先見の力を持った万葉という女の子が置き忘れて行かれます。"山の民"によって置いて行かれたこの子供はやがて、製鉄所を構えることで「上の赤」と呼ばれるこの地方の一大有力者である赤朽葉家に嫁ぐことになります。そして彼女が生んだ娘の毛鞠は、高度経済成長の時代に育ち、この地方で一大勢力を誇る暴走族をまとめ上げ、激しい生き方の末に人生を燃え尽きさせてしまいました。
 そんな特殊な祖母と母の血を引く娘の瞳子は、たった一人残される赤朽葉本家の女として、先の見えない時代と自分に煩悶しつつ、祖母が残した「わしはむかし、人を一人殺したけんよ。」という言葉の意味を、祖母と母の人生を辿ることで模索し始めます。

 本作は、戦後から高度経済成長期、そしてバブルとその崩壊を経て現代へと続く日本の変遷を、赤朽葉家という製鉄で栄華を誇った一族に生きた三代の女の姿を通して描いた作品です。
 神話めいた存在である"山の民"と下界の人間との最後の繋がりである万葉の時代、急激な近代化の波の中で徐々にフラストレーションが溜まりそのはけ口を求めて失踪する毛鞠の時代、そして母の時代と同様にフラストレーションを抱えつつも自らの中にどこかへ向かおうとする力を見い出せないでいる瞳子=我々読者の生きる現在。
 「鉄は国家なり」という言葉が象徴する昭和の前半は、混沌とした時代ではあってもそこにはひたすら右肩上がりな時代の勢いの中で、シンプルな秩序が支配する過渡期の日本の姿が、万葉という神話の時代と近代日本の架け橋である存在を通して描かれます。ですが、石油ショックを経て、製鉄の世界でもそれまでの職人の世界が合理化されるとともに、溶鉱炉は存在意義を徐々に失っていきます。そして日本の産業構造が変わり、バブル崩壊を経て、従来の日本社会にあった「家」というものの在り方もまた変わっていきます。
 本作ではこうした時代の変遷が三代の女を通じ、赤朽葉家の溶鉱炉の盛衰とともに、それぞれの時代に生きる心のあり方の変化を見事に描き出したと評価できる作品でしょう。
 自分に持たないものを無駄に欲しがることのない万葉の、「足りている」という言葉は、娘の毛鞠が自身傷だらけになりながら常に何かを求め続ける姿とは好対照であり、さらには「足りない」と感じながらも何を求めて良いのかを見い出せない瞳子に共感する所の大きい現代の読者には、憧憬とともに深い意味を持っています。
 本作は、社会と産業、そして人の心における近代から現代へと変わる大きな変遷を、ノスタルジックでありながらも鋭く描き出すことに成功しているという意味で、評価するに足るものでしょう。