紅玉いづき 『ブランコ乗りのサン=テグジュペリ』

ブランコ乗りのサン=テグジュペリ
 少女サーカスの花形であるブランコ乗り、八代目のサン=テグジュペリ。ですが今、舞台に立つのは曲芸学校の厳しい訓練を潜り抜けてサン=テグジュペリを襲名した涙海ではなく、その双子の妹の愛涙でした。訓練中の事故で入院することになった双子の姉の頼みで入れ替わりをすることとなった愛涙ですが、彼女には「シーズン中にブランコ乗りは命を狙われるかもしれない」という不吉な忠告が与えられます。

 ブランコ乗りのサン=テグジュペリ、猛獣使いのカフカ、パントマイムのチャペック、歌姫アンデルセン、ナイフ使いのクリスティ。そして彼女たちを束ねる団長のシェイクスピア。彼女らが、それぞれの「名前」を与えられることで、本作は強い詩美性を帯びた作品となっており、著者の持ち味である童話的な物語の空気と融合して、独自の少女小説を作り上げていると言えるでしょう。
 作中では、サーカスの演者である少女たちに、団長のシェイクスピアは次のように言います。

「不完全であれ。未熟であれ。不自由であれ」

 この端的な言葉は、「少女」という子供でも女でもない生き物の魅力を全て内包していると言っても良いのかもしれません。本作で描かれるのは、不完全であることで完全であるというような、すなわち欠けた部分を持つ歪な存在であるからこその魅力を持つ「少女」という生き物です。
 サーカスの演者として「名前」を受け継ぎ、スポットライトを浴びることが出来るのは、外の世界から自らを閉ざし、狭き門をくぐって曲芸の学校に通い、そこで「つくられた」存在です。彼女たちは、普通の世界とは全く違った世界で自らをつくり、それぞれが「サン=テグジュペリ」や「アンデルセン」という存在となり、そうした存在であり続けるためにだけ生きています。
 そうした中で、本当のサン=テグジュペリである姉の身代わりとしてブランコに乗ることになった愛涙という存在は異質であり、彼女はその異質さという要素ゆえに、他の登場人物と同じ歪さを持った少女サーカスの一員であったと言えるのかもしれません。
 こうした刹那的で視野狭窄でありつつも、そこから脱したくない=成長することを拒むからこその心地良さを見せる「少女時代」を生きる「少女」というものは、桜庭一樹などが多くの作品において描いてきたものと共通する部分があると言えるでしょう。
 ですが、ライトノベルという媒体にあっても、どこか「生身の」少女を描いていた桜庭一樹と、本書で著者が描く童話的な作品世界の中で「つくられた」少女との間には、どこか大きな違いがあるようにも思えます。それは、桜庭一樹の作品においては少女たちが「少女時代」を終えることを宿命づけられていたのに対し、本書の結末部においては「不完全」で「不自由」であり続けるために登場人物の一人が取った行動に表れていると言えます。
 独特の童話的な著者の作風が十二分に生かされた一作。