道尾秀介 『向日葵の咲かない夏』

向日葵の咲かない夏 (新潮文庫 み 40-1)
 犬や猫の四肢を折り、その口に石鹸を詰めるという猟奇的な出来事が続く中で、小学校4年生のミチオは、担任の岩村の言いつけでその日休みだったクラスの苛められっ子のS君の家にプリントを届けに訪ねます。ですが人の気配のないS君の家でミチオが見たのは、首を吊って死んでいるS君の姿でした。ミチオは学校へ引き返してそのことを担任に告げますが、すぐに警察と岩村がS君の家に向かったところ、何かがあった痕跡は残っているものの、ミチオが見たS君の遺体はその場から消え去っていました。妹のミカだけを偏愛する母親は、ミチオが嘘をついたのだと頭から決めて彼を詰ります。ですが、一週間後に蜘蛛に「生まれ変わって」ミチオの前に姿を現したS君は、「僕は殺されたんだ」と訴えます。

 本作においてまず特筆すべきなのは、登場人物たちの心理面における救い難い「負」の情動が作品を支配していると共に、蜘蛛に生まれ変わったのだというS君の非現実的な存在を、あたかも当然の如く容認してしまう、作品の底辺にある不可解で歪んだ空気の存在でしょう。
 本作冒頭から薄っすらと予感させられる歪みは、事態が進展するにつれて次第に大きくなります。その歪みは、蜘蛛に生まれ変わったS君との会話の中に見られますが、妹のミカと母親、そしてミチオの三者の間の奇妙な緊張関係の中でも大きく存在しています。
 一見して共存しているかのような非現実と現実は、相互に影響し合って読み手の中に何とも言えない違和感を育てますが、この違和感すらも当然そこにあるものとして作品の中に溶け込ませてしまった作者の手腕は実に見事。その理由としては、ホラーやサイコ・サスペンス的な要素をごく自然に描き出す著者の持ち味に加え、ホラー的な要素を、本格ミステリという枠組みの中で破綻なく使うための描写が、細部にいたるまで計算されて散りばめられているからなのかもしれません。
 読了後に読み返してみれば、現実の動きに対して「混乱」が起こる理由がはっきりと見えてきますし、様々な伏線がミスリーディングと共に配置されていることが分かります。