道尾秀介 『鬼の跫音』

鬼の跫音
Sを葬り去る瞬間、現場を見ていたのは鈴虫だけでした。友人のSを殺し、その彼女を奪った男の回想で綴られる『鈴虫』
家族の中で一人だけ落ちこぼれとして冷遇される主人公が、Sという名の囚人の妹へのメッセージを見つけます。Sのメッセージの意味と彼の起こした猟奇事件の真実を知ることが「運命」だと語る主人公の顛末を描く『ケモノ』
Sをはじめとする友人たちにけしかけられた度胸試しで、若い女性を襲った主人公。二十年の時を経て、その土地に舞い戻った彼が自身の過去の狂気と対峙する『よいぎつね』
アパートに入った空き巣が、盗んだ貯金箱を住人である作家に返しに来ます。身に覚えのない貯金箱の存在に戸惑うものの、中から出てきた一枚のメモがSによって書かれた告発であると思い至る『箱詰めの文字』
火災によって全てを失った女性は、達磨に目を入れてどんどやの火に投げ入れます。彼女を救い出してくれたSという男を支えに生きていくことを決める心情が日記形式で綴られる『冬の鬼』
同級生のSの陰湿ないじめに遭う少年は、不思議な女性に声をかけられます。狂気に捕われているようなその女性が少年に見せたものとは…『悪意の顔』

 全6編、生きた時代も背景も全てが違うものの同じ"S"という名の人物をキーパーソンに配置した不思議な幻想短編集。
 どの作品も、狂気と言うにはどこか弱々しいけれども暗い情念に満ちており、各作品とも主人公が決定的に後戻りの出来なくなる瞬間というのが、実に鮮やかに表現されています。
 また、各作品は共通してミステリーやホラーというよりはあくまでも幻想小説の色彩が強いものの、これまで著者が得意としてきた読者に対するトリック的な手法が良いスパイスとなっていると言えるでしょう。虫の生態を語りながら自らの回想に密かに重ね合わせる『鈴虫』や、淡々と綴る日記を最後まで読んだ瞬間に思わず冒頭読み返したくなる『冬の鬼』の技巧などは、本格ミステリの分野でも高く評価される著者の手腕が窺がえます。
 さらに、現実と夢想の境目がハッキリとしながらもどこか曖昧であるがゆえに、陰惨さが薄い膜を一枚かぶせたように独特の持ち味を見せる『ケモノ』や『よいぎつね』は、現実に起こった事件と終盤で混濁してくる主人公の想念とのバランスが絶妙。
 そして、時折思い出したように繰り出される、最後の一撃で読者を突き落とす技巧ありと、実に充実した短編集と言えるでしょう。
 Sという人物、そして印象的な場面で現れる虫や鴉の生きものといったアイテムにより、読者は僅かな違和感を与えられます。この小さな共通項目のみでオーバーラップする世界観が、1冊の本としての幻想の作品空気を生み出しているようにも思えました。