北森鴻 『香菜里屋を知っていますか』

香菜里屋を知っていますか
 池尻でバーを営む香月が通う昔馴染みの老バーテンの店で出された、基本を忘れたかのような一杯のマティーニ。結婚を決めて山口へと引っ越すことになった編集者の飯島七緒が語る、友人女性の不可解な行動。少年時代に買いにくい文庫本を怪しまれずに買うため、他の本とブックカバーを付け替えてレジへ持っていった思い出を語る東山。店の常連達が一人、また一人と人生の岐路に立って旅立っていく中で、香菜里屋にも僅かな違和感を感じさせる変化が現れてきます。そしてある日、香菜里屋を閉めた工藤が姿を消し、彼を尋ねる不審な男が残された常連たちの前に現れます。

 本作では冒頭の一編から、香菜里屋を取り巻くものが少しずつ変化をおび、それぞれの人生の岐路に立って香菜里屋を去っていく「予感」が描かれています。その予感は『終幕の風景』で香菜里屋にまで及び、小さな変化が徐々に物語りに影を落し、突然それまでは居心地良く存在した香菜里屋が崩壊することでこれまでは語られることのなかった香菜里屋のマスター、工藤の過去がようやく浮かび上がります。
 読者は本作において、これまでの香菜里屋の歴史を振り返り、物語の世界で確実に時間が流れていることを思い知らせ、そして突然の喪失を味あわされることになるでしょう。そして切ないほろ苦さを含みつつも優しさを感じさせる謎解きの裏側にあった工藤の人生を表舞台に引っ張り出したところで、突然物語りは終幕を迎えることになります。
 最終話では、冬狐堂こと宇佐見陶子から雅蘭堂こと越名&アルバイトの阿積、蓮丈那智と助手の内藤三國など、北森作品のキャラクター総出演と言っても良い広がりを見せて、突然物語の表舞台から姿を消した香菜里屋の主人の工藤に代わって謎解きがなされます。
 決して綺麗に謎が解かれ、これまで工藤が常連客たちにそうしてきたようには、問題を抱えた人間の心が癒されることは無い結末となっていますが、どこかにあり続ける香菜里屋と、「いつか再び」を予感させるものとして、やはりほろ苦さと穏やかな余韻を残す終わり方であるとは言えるでしょう。