北森鴻 『蛍坂』

螢坂 (講談社文庫)
 三軒茶屋のビヤバー「香菜里屋」の料理と酒と店主のかもしだす癒しの空気に、訪れた客が語った話の裏にあった謎をマスターの工藤が鮮やかに解き明かすシリーズの第3弾。
 十六年前に別れた女性との思い出の「蛍坂」に足を運んだ元カメラマンの追想と、別れの裏側にあった真実をほろ苦く解き明かす『蛍坂』。「ちょっといい話」が一転してきな臭いものに変わる『猫に恩返し』。たった1軒が同意しなかったことで再開発地区の変更が余儀なくされ、人生を変えられた男が知る切ない真相を描く『雪待人』。ほんの少しのことで全く別人に見えてしまう人の印象に気付き、それを小説化した男の作中作を軸に展開する『双貌』。子供の頃に親戚の「脩兄」との思い出の詰まった幻の焼酎「孤拳」を探す女性と、秘められた「脩兄」の想いを解き明かす『孤拳』。全5編を収録。

 鮎川哲也の「三番館のバーテン」に匹敵すると言っても良い、ビヤバー「香菜里屋」のマスター工藤の安楽椅子探偵もののシリーズ。
 本書では、謎を解き明かし真実を明らかにすることが必ずしも幸せに繋がるわけではないという結末が多いのですが、その真相の苦さが香奈里屋の人を癒す空気の中で語られたり、また時間が経って思い出に昇華されることで、決してつらいだけの結末になっていない辺りが秀逸。
 各編の主人公達が感じるそうした切なさやほろ苦さは、香菜里屋で饗されるビールのほろ苦さと料理の深い味わいとあいまって、そのほろ苦さを懐かしむような空気が何とも心地良く感じられます。切なく苦いながらも、ノスタルジックなこの読後感は、シリーズの持ち味であるとも言え、本書でもそれは十二分に発揮されています。
 本作ではシリーズ3冊目にして、香菜里屋のマスター工藤自身の過去が仄めかされる部分が非常に印象的でした。次に刊行されるシリーズ最終作への期待に繋がる1冊であると言えるでしょう。