柳広司 『ジョーカー・ゲーム』

ジョーカー・ゲーム (角川文庫)

スパイ養成のための組織としてD機関が創設され、およそあり得ない選抜試験を潜り抜けた人材が、かつての優秀なスパイであった結城中佐の下、スパイとしての訓練を受けます。陸軍参謀本部から出向を命ぜられた佐久間は、軍においては異端としか言いようのないD機関の人間の考え方に戸惑います。参謀本部のコントロール下にないD機関を潰そうという上官の意図の中、ある外国人にかけられたスパイ容疑を立証するための捜索が命じられますが、同行した佐久間はこの命令が自らを窮地に陥れるものである事に気付かされます。(『ジョーカー・ゲーム』)
横浜に住む英国総領事の邸宅に送りこまれた、D機関に属するスパイの蒲生。発覚したテロ計画に、総領事が関与しているかどうかを探る蒲生は、総領事の趣味であるチェスの相手をつとめながら一計を案じます。(『幽霊(ゴースト)』)
ロンドンでスパイ活動をしていた伊沢は英国の諜報機関に捕えられてしまいます。取り調べを受けて白を切りとおそうとするものの、D機関のトップである結城の名前まで挙げられて追い詰められた伊沢ですが、スパイは捕まった時の対処こそが重要であるという結城の経験に基づく教えを思い起こします。餞別にと、ロビンソン・クルーソーの物語だけを寄越し、自分を見捨てたような結城の行動の意味するものと、伊沢が窮地を切り抜ける方法とは。(『ロビンソン』)
上海租界にある憲兵隊の内部に裏切り者がいると上司の及川に聞かされた本間は、秘かにその内通者の正体を探る任務を命じられます。そんな中で及川の自宅を狙ったテロが起こり…。(『魔都』)
ドイツ人ジャーナリストという隠れ蓑を着た、特異なタイプのスパイだった男の死を調べることをD機関でのスパイ養成過程の卒業試験とされた飛崎。ドイツ人スパイの死の裏にあった真相を突き止めるうち、飛崎は自分に課された卒業試験の意図を悟ります、(『XX(ダブル・クロス)』)

 かつて優秀なスパイだったという、結城中佐が立ち上げたD機関。そこに属し、決して光の当たる生き方をしない、「主役になってはいけない」人物たちを主役に据えた連作短編集。
 「お国のため」に死ぬことは誇りであり、敵に捕らわれて生き恥をさらすなど言語道断――そんな戦前・戦時下を通じて日本の軍事体制の中では、D機関での結城の薫陶やそれを受けた者たちの在り方は、際立って異質なものとして映ります。現代に生きる読者である私達から見れば、結城やD機関のスタンスこそが理に適っており、作中で描かれる時代の「常識」とD機関の者たちとの間にある「差」を明確に感じさせられます。
 各編においては、決して自身が物語で中心的な活躍をしているわけではないのに、全ての物事の裏にいて、事態を操る結城という「魔王」の存在感が強く感じられるという点に、本作の面白さの一つがあるのかもしれません。実際に彼自身がスパイとしての活躍をする物語が本書にはないにもかかわらず、全ての事件において結城の意図が徹頭徹尾働いていることになります。それは結城自身が作中で語るように、「スパイは決して表舞台に立たない」というスタンスと見事に重なっており、表舞台に立たないにもかかわらず、物語を動かす結城が、作中で言われるように「優秀なスパイ」であることを浮かび上がらせることにもなっているのかもしれません。
 展開にワクワクさせられつつも、語り口調はあっさりとしているからこそ、硬質な作品世界が構築される上質なエンタメ作品。