『九段坂の春』
九段坂にある中学生に火曜鴨志田翔一は、たまたま一緒になったクラスメイトの桑原崇と別れた直後、千鳥が淵の桜の木の下で、桜の花びらを握り締めて死んだ男の最後に立ち会ってしまいます。そして変わり者の崇は、民族学にやたらと詳しい理科教員の五十嵐弥生に、額田王の詠んだ歌や三島由紀夫の小説の謎を提示されます。
『北鎌倉の夏』
護良親王が閉じ込められた末に首をはねられて殺された鎌倉宮で、「幽霊が出る」という怪談がささやかれる折に、鎌倉宮の管理人が謎の死を遂げます。そして高校生だった棚旗奈々が交際していた男子生徒は、「楠正成は湊川で自害なんかしていない」という説について、空手部の友人達と議論を交します。
『浅草寺の秋』
浅草寺の裏手にある公園で、男女が抱き合うようにして死んでいる遺体が発見されます。その現場をうろついていた怪しげな老人は、庚申塚にまつわる話をたまたま通りがかって興味を抱いた高校生の鴨志田翔一に語ります。そして事件で死んだ女性の妹の優里は、大学の空手部に籍を置く小松崎に「姉が付き合っていたのは一緒に死んだ相手ではない」と相談を持ちかけます。
『那智瀧の冬』
熊野灘の海岸で、一艘の小舟に乗り全身を真っ赤に腫らして死んでいる奇怪な遺体が発見されます。この死者は、バブルの勢いで成り上がった土地の名士でしたが、彼は妻子がありながらマンションには愛人を囲い、さらには自分の息子ほどの年でしかない彩子を愛人にしようとあからさまな誘いを掛けるなど、周囲の恨みを買う人物でした。そして大学で毒草の研究を行っている御名形史紋は、従姉妹とともに訪れた彩子の家で、天狗についての話を語ります。
QEDシリーズ初の連作短編集であり、シリーズの登場人物がまだ現在の個性を確立するに至っていない時期、そして彼らの個性の方向性を決めるのに一役買う事件が描かれている作品集。まだ中学生のタタルや、高校生の男子生徒などが議論を重ねる歴史の謎に関しては、どれも小粒であり、(シリーズ本編でも作品ごとにレベルのばらつきはあるとは言え)シリーズ本編で展開されるほどの緻密さは無いということは出来るでしょう。
ですがその未成熟さも、キャラクターの成長の過程をリアルに描こうとした結果であると、好意的な解釈も不可能ではありません。また、歴史の謎とリアルタイムで起こっている事件との関わりの希薄性に関しても、短編集ということであれば私には十分許容の範囲でした。
それぞれの独立した短編を全て最後まで読むと別の大きな絵が見えるという、連作短編集ならではの試みに関しては若干弱さも感じますが、各編を少しずつ結び付ける登場人物たちの「縁」が非常に生きているという点は評価に値するところ。また、最初の一編である『九段坂の春』で、「縁があるということなのかな」というタタルの台詞が最後まで生きてくるという点でも、非常に上手く繋いだと言えるでしょう。