愛川晶 『六月六日生まれの天使』

六月六日生まれの天使 (文春文庫 あ 47-1)
 主人公が目を覚ますと、隣には先程まで彼女を抱いていた男が寝ています。男との情事の余韻を感じながら彼女はバスルームへ向かいますが、その瞬間彼女はバスルームの場所も、男が誰なのかも、思い出せなくなっていることに気付きます。パニックに陥った彼女の脳裏に甦ったのは、自分がバスルームで男性の腹にナイフを押し込んでいる記憶で、さらには自分自身が誰なのかも分からなくなっていることに気付いてしまいます。記憶喪失を自覚し、部屋を逃げ出した彼女が雪の降る外で出会ったのは、「どうしてこんなに早く出てきたんだ」と彼女を詰問するサンタクロースの扮装をした初老の男性でした。

 2005年に本格ミステリマスターズから刊行された作品を文庫化したものであり、突然失った記憶を、そして「私は誰なのか」を探る仕掛けの施されたミステリ作品。
 物語は、クリスマスイブに記憶を失った主人公の「私」の視点で、彼女と彼女の恋人らしき男の巻き込まれている状況を探るパートと、男が過去を回想しながら記録するパート、そして記憶を持っている「私」のパートの3つによって構成されています。
 そして、主人公と恋人の二人の記憶障害は、本作を成立させる上では不可欠な要素であると同時に、伏線でありまたミスリーディングにもなっています。主人公とその恋人が共に記憶に障害を持つというこの状況によって、異様な空気が生み出されて物語に独特の緊張感を添えることに成功していると言えるでしょう。
 ですが半面、「何が起こっているのか」が明らかになる過程は些か冗長であり、それ自体のサプライズはさほど大きなものではなかった気もします。決して難解になっているわけではないのですが、複雑に幾つもの要素を絡ませたことで、魅せ方の点では未消化であったということは言えるかもしれません。また、構成や仕掛けの巧みさには一定の評価を出来るものの、本作は決して読後感の良いものではなかった辺りも、個人的に作品全体への評価を落とす要因となっています。
 仕掛けそのものに関しては、記憶障害という要素を上手く生かした巧みな構成によって破綻無く機能していますが、このメイントリックに関しても乾くるみの『イニシエーション・ラブとの比較が頭をよぎってしまったため、洗練度においては今ひとつという印象でした。
 また、敢えて著者が狙った部分はあるのでしょうが、安っぽい性描写の乱用の必然性に関しても疑問はあります。最後に無理矢理挿入されたようなセンチメンタリズムに関しても、作品全体の泥臭さゆえに十分な感慨を残すだけの力を持てず、残念。